KanonのアンソロジードラマCD最終巻を買ってきました。聞き終えて、俺の栞の声を思い出そうとしても思い出せません。ああっ!俺の栞は、やはりあの雪の日に倒れたまま... あわててドリキャスを準備して本当の栞に会えました。栞...おまえが本当の栞だっ!!(最初のドリキャス版の栞と、ラジオドラマやアニメの栞とでは声が違うのです) てなことをやっていて、ふと思いました。過去に関しては、現実も空想も区別がないのでは?? 死んでしまった実在の友人。彼との想い出は今後増えることはありません。ゲームの中の栞。彼女との想い出が今後増えることもありません。片方は現実の存在で、片方は架空の存在ですが、どちらも今後、現実の世界で会うことはできません。自分の脳の中でしか考えることができない存在。そう考えると、現実の過去も作られた過去も、何も違いがないでしょ? 一方で、未来については現実の世界と架空の世界は明確に区別されています。現実の友人を想像して「今度あいつに会ったら、この話をしよう」と考えることは普通ですが、ゲームのキャラを想像して「あゆあゆに会ったらたい焼きを買ってやろう」なんて考えていたらちょっとヤバいです。 つまり、未来を考えるとき現実と空想は区別されているが、過去を考えるときは現実と空想の境界は曖昧なのです。 どうかな?僕だけじゃないですよね? 「ガミラス星なんて実在しないんだから西暦2199年に地球が遊星爆弾の攻撃を受けるはずがない!」なんて批判をマジでやっていたら危ない人です。だって、宇宙戦艦ヤマトは架空の話なのだから。ところが、歴史小説や架空戦記物に対して「当時の技術では不可能だ」とか「この時、○○はここにはいなかったはず」といった具合に、現実の過去を理由に架空の話を批判する人は結構いるでしょ。これって、現実と空想を完全にごっちゃにしていますよね。だけど、そういう人に対して我々は「あの人はオカしい」なんて考えません。やっぱり、過去の事は現実と空想の境界があいまいなんです。 まあつまり、そういうわけで、栞もあゆあゆも俺の中では実在している!!というわけです。はぁはぁ。 りぜるたんも実在にょ!もちろん、でじこやミント、バニラさんも実在だ!!はぁはぁ | |