2006年8月 3日

我孫子武丸「殺戮に至る病」

筒井戦勝利に気をよくして叙述トリックものを読みまくっているわけですが
最初から分かって読むのはアンフェアという説もありますが、向こうも騙す気満々なのだから仕方がない。
今回もネタバレ注意で。
100ページあたりまで読みました。折原に鍛えられ、だいぶこつが分かってきたのだが、
叙述トリックでは文章、または構成に何かが隠されている。それは表現などで巧妙に隠蔽されているのだが、ある程度その「隠す表現」が続くと、どうも不自然ってことになる。
で、今回は、まず構成があやしい。今回、いきなり冒頭が「エピローグ」になっていて驚いたりするのだが、各節は三人三様、それぞれの視点で書かれているものが交代で登場。なぜこんなぶつ切りで、時間もずれた形で進行していくのか。一つは、三者の時間が離れているのではないかという点。最初の事件と第二の事件に時間差がある可能性は?時間が近しいという根拠は岡村孝子の歌だけだが、歌は「夢をあきらめないで」1987年か。本の刊行は1996年以前なので、数年の時間差はあるのかもしれない。離れていないという根拠は、「前年」という見出しと「雅子が不審を抱く三ヶ月前、前年」という記述のだが、それは雅子の不審の開始をどこにおくかによる。
もう一つは彼らの、特に雅子と稔の関係だ。
稔側の記述を読むと、稔には「母親」がおり「雅子」という稔に近い人物がいることがわかる。
雅子側の記述を読むと、雅子には夫、息子、愛という娘、それに「稔」という人物。
問題は、雅子にとって稔とは、稔にとって雅子とはどういう関係かということなのだが、100ページばかりまででは、どうやらそれが「隠されている点」のようだ。「母親=雅子」「稔=息子」と直接的に描写した表現は見当たらず。47ページに「稔が大学に試験のために出かけた」とある(雅子サイドで「稔」という名前が登場するのはここだけ!)。が、別に学生でなくても大学は行くし、証拠にはならない。
稔が雅子の夫だとしたらどうだ?傍証は結構ある。
・36ページ「同じ文学部の院生だと嘘をついた」院生じゃなくて、先生なのかも。
・72ページ、新宿でひっかけた女の子に「オジン」呼ばわりされている。本当にオジンなのかも?

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