2005年4月 8日

眼鏡っ娘の発見者

アシモフの科学エッセイ(4)生命と非生命のあいだ(アイザック・アシモフ著、山高昭訳、早川書房)の中の『無学礼賛』にこんな一節が。

もっといい例はハリウッドのお定まりのやつなのだが、これはあまり使い古されて陳腐になってしまったので、とてももう一度つかうわけにはいかないという代物である(まず信じ難いようなできごとだ)。ここでいうお定まりとは、絶世の美女(ローラ・ラブリーと呼んでおこう)がメガネをかけているために醜く見えると仮定する類のやつである。

…アシモフ先生、いまどきのアニメとかドラマ界では、とても信じ難いようなできごとが起きていますよ。
この手は、何度も使われた。ローラ・ラブリーは図書館員だったり学校の先生だったりするが(中略)、もちろんその事実を示すべく大きな鼈甲縁のメガネ(最も知的なタイプだ)をかけている。

ステレオタイプですな。
さて、観衆の中の五体満足な男性なら誰でも、メガネをかけたローラの姿に、メガネをかけていない時と少しも変ることなく情緒をかき立てられる。ところが、映画の主人公を演ずる俳優の歪んだ眼には、メガネをかけたローラ・ラブリーは平凡な女に見えるのだ。

「情緒をかき立てられる」はいい表現だ。「萌え」とかを使わざるを得ないときはこれを使うようにしよう。
話の途中で、世慣れた親切なローラの女友達が、彼女からメガネを外す。思いがけなくもローラはメガネなしで完璧に見えることがわかり、わが主人公は今や美人のローラと烈しい恋に陥って、ここに申し分なく華やかなフィナーレとなるのである。

この文章が書かれたのは1957年ごろだから、この頃から既に手垢がついていたわけだ。アシモフ先生は、ここで「メガネ」は知性の象徴となっていると喝破し、それを捨てることを美化するのは、無学の礼賛と同じことだ、と批判しているのである。
アシモフ先生は追補で、この後スプートニクが打ち上げられ、その後無学礼賛は攻撃されるようになった。物事は再び元には戻らないだろう、といわれているが、どうしてどうして。今まさに放送されているコンタクトレンズのCMで、まさに上のようなパターンを私は見た。無学礼賛の流れは連綿として現代にも生きているのだ。
私は別にメガネフェチではないのだが、かけていようといまいと同じじゃねーの?とは思います。それを一方だけを持ち上げるような風潮にはやはり、危険な匂いを感じます。

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